野生の呼び声

 

 ジャック・ロンドンの「野生の呼び声」を読了。久しぶりに良い読書。確か去年にハリソンフォードが主役で実写映画化もされている。1903年に出版されたアメリカ文学の古典だが、その人気は未だに衰える事はない。

 

 「野生の呼び声」は一言で表すと犬が主役の物語で犬と人との友情の物語だ。僕はこれまで犬の視点で語られる物語を読んだことが無かったから、実に面白かった。バックは大型犬で体重が63キロもある。サンフランシスコの判事の屋敷で何不自由なく生活を送っていた、誇り高き犬、バック。ある日、彼は庭師見習いのマヌエルによって飼い主の承諾抜きで売り飛ばされてしまう。マヌエルのギャンブルで作った借金返済の為に。バックは荷馬車、列車、船を乗り継いで北極圏に近いスキャグウェーの街に送られる。1849年のゴールドラッシュで沸く時代だったから雪で埋もれた閉ざされた道を通り抜けるには犬橇が必要だった。

 

 そしてバックの過酷な旅はここから始まる。金鉱で働く人々がいるドーソンまでの道のりはとても過酷だ。スキャグウェーからドーソンまでの道をバックは何回も往復する。犬橇は複数の犬によるチームワークで当然、主導権を握る犬がいる。バックは新入りだが、犬橇の先頭を走る真っ白なスピッツと決闘して勝利を収め彼がチームのリーダーになる。ドーソンまで人を運んだり、郵便物を輸送したりして身体を酷使し続けたバックは3回目の旅の途中で倒れてしまう。今まで荒々しい橇の運転者に鞭で打たれたり棍棒で殴られて身体はボロボロだ。力尽きて倒れた時にバックを救ってくれたのがジョン・ソーントンだった。

 

ソーントンとバックの友情関係は素晴らしい。ソーントンがハグをすればバックは嬉しそうに鼻をクーンと鳴らす。ソーントンはバックを頼りに金鉱をたっぷり手に入れた。カナダとアラスカの国境付近の荒野での自給自足の森での生活は楽しかった。野生のムースを仕留め、川で水を飲む。バックは徐々にだが確実に野生の狼の姿に戻ってきた。最早、文明社会で育ったバックの面影はなかった。森から聞こえてくる仲間たちの鳴き声に耳を澄ます。野生の群れの狼たちだ。

 

 星野道夫はアラスカに憧れていた。それよりももっと前にアメリカ中の人々がフロンティアを見届けるためにそして金鉱を目指してアラスカに向かった。ジャック・ロンドンもその内の一人だった。彼のアラスカでの取材経験を元にこの物語は誕生した。名作。

 

 

 

JR 上野駅 公園口

 

 柳美里の作品を読むのは初めてだ。上野公園でホームレスになった男の話。カズさんと呼ばれる、福島県南相馬市出身の男。大家族だった。七人兄弟の長男で、家は貧乏だった。1933年で生まれで天皇と同い年だった。若い頃から北海道に出稼ぎに行ったり、苦労が絶えなかった。30歳の時に上京した。1964年の東京オリンピックの建設工事に従事するために。プレハブ小屋での生活で残業も沢山してよく働いた。そんな時に長男の浩一が亡くなった。まだ21歳だった。あまり親子の関係を築けなかったのを後悔した。一緒に遊んだことも少なかった。20年あまり東京で働いてから、福島に帰郷した。これで妻と水入らずの生活が送れるかと思った矢先、妻の節子も亡くなった。大変、動揺したが、長女の洋子の孫娘が世話してくれた。しかし、孫娘に迷惑をかける訳にもいかないので再度、上京した。そしてそこからが主人公のホームレス生活の始まりだ。そして現代の物語だ。

 

 普段、気付かないが、ホームレスになった人たちには一家離散だったり会社の倒産だったり、何故ホームレスになったのかちゃんとした理由がある。勿論皆なりたくてなったわけではない。ホームレス仲間のシゲちゃんはインテリで上野の歴史に詳しく主人公に色々、教える。西郷隆盛銅像の事や、東京大空襲に慰霊碑の事。ホームレス同士の繋がりは強い。熱燗を一緒に飲んだり、仲間が余所者が段ボールとブルーシートで作ったコヤに入らないか見張っている。収入は空き缶の回収や、雑誌を拾ってそれを売ったりする。寒い時期は一度チケットを買えば一日中居座れる近くにある大人向けの映画館で過ごす。暖房が効いてて中は暖かい。図書館で過ごす人もいる。ある日、山狩りと呼ばれるホームレスの一斉清掃が行われる。公園内のコヤを全て撤去せよと役所がうるさい。2020年に開催される東京オリンピックの為だ。そして311の大震災が起こる。生まれ故郷の浜通り津波に巻き込まれて、孫娘が亡くなる。男はJR上野駅のホームに立っている。目を閉じて被災地の惨状を思い浮かべる。

 

いい読書だった。それぞれ人には背負っている過去がある。街中ですれ違う人や上野や新宿で路上生活を送っている人。著者は上野公園でホームレスの人たちに取材して物語を書いた。柳美里は現在は南相馬市に移住している。震災は彼女の執筆活動に大きな影響を与えた。

 

 

旅をする木

 

 僕が今手に持っている「旅をする木」は2017年に発行された40刷だ。初版は1999年。ずっと読み継がれている本にはハズレがない。3頁程の小さな物語が33篇。本書には写真は無いが文章だけで十分にアラスカの大地の美しさが伝わってきた。読者の精神にとても良い影響を与えてくれる本だ。

 

 星野道夫は生涯、旅をした。僅か16歳でアメリカまで2カ月間旅行に行った。冒険心の強い人だった。子供の時は北海道に行きたいと思っていた。その延長線上にアラスカがあった。寒い地域に憧れていた星野。一見、アラスカは荒れ果てた不毛な地という印象しかないが、実はその地で古来から住むエスキモーやインディアンが住んでいた。星野はよく現地の人と会って話をした。社交性があって人との出逢いを喜んだ。そして読書家でもあった。彼は十代の頃に偶然、東京の神田の洋書店でアラスカの写真集を手に取り夢中になって読んだ。彼の北国への妄想はどんどん広がっていった。26歳になってアラスカに渡って以後18年間住んだ。アラスカでの非日常の生活は驚きの連続だった。水道が止められても平然と生活をしている老夫婦。長くて暗い冬と短い夏。小さいながらも懸命に生きようとするワスレナグサ。どれもが愛おしかった。

 

 星野のすごいところは、フェアバンクスを拠点にアラスカ中を隈なく探索した所だ。勿論、極寒の北極圏まで足を延ばす。命懸けの旅だ。悪天候で友人のセスナのパイロットを失った。過酷な自然だ。人が住むには大変だ。それでもその荒涼とした大地に人が住み美しい大自然があった。ヨーロッパにある人工的な自然ではなく厳しくて非情な自然だ。星野はカリブーの大群の季節移動を追った。オーロラ、熊や狐、狼、鯨を発見した。そしてそれを写真に収めた。生命の話を一本のトウヒに例えたのが面白かった。死んだ生命はまた新たな生命を生む。生命はそれを繰り返すのだ。

 

もう少し彼の著作を探ろうと思う。

 

 

いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画

 

 原田マハは世界中の美術館を数多く訪れている。旅をする目的は美術館を訪れることでもある。僕はとても彼女の生き方に共感した。ヨーロッパやメキシコ、アメリカまで実際に脚を運び美術館に行ってお目当ての画の前に佇む。それだけで十分に達成感がある。僕もそうだった。ロンドンまで行ってテート・ブリテンで実物のオフィーリアを観た時、感動したの覚えている。モスクワで見知らぬ女を鑑賞した時も同様に感動を覚えた。

 

 本書では26枚の名画を原田マハ氏が作家の生い立ちを含めて紹介する。

原田マハの最も好きな画家がピカソである。実際に彼女の小説にはゲルニカが題名を使われたりピカソへ敬愛を窺い知れる。原田マハは10歳の頃に倉敷にある大原美術館ピカソの「鳥籠」を観てからピカソの熱心なファンになった。日本の地方都市の美術館でピカソの絵が見れるなんて本当に凄い話!実際に倉敷まで足を運んでみる価値がある。原田氏の言う通りピカソは美術史に燦然たる名前を残した。ピカソの前衛芸術は既成のお堅いパリのサロンの度肝を抜かした。

 

 本書は今まで読んできた他の著者が出版した絵画紹介の本と重複作品があるが、原田氏の名画から読み取る観察力が素晴らしくて最後まであっという間に読み通してしまった。元々は画についての小説を書いている作家なので名画の紹介がとても上手い。西洋絵画だけでは無く、日本画家やメキシコのフリーダ・カーロの作品もあるのが嬉しい。ノルウェームンクの叫びは競売で最高額で落札されたそうだ。つくづくを思うのはやはりピカソは突出した才能の持ち主なのだと思った。

 

 

青春ピカソ

 

 岡本太郎によるピカソ論だ。太郎の文体は荒々しい。そして哲学的で難しい。彼は芸術とは既成の概念を破壊する事だと言う。徹底的な破壊だ。ピカソを天才だと認めた上でピカソを超えると言うからすごい。太郎からピカソへの挑戦状だ。太郎は言う、真の芸術は情緒では無く耽美でもない。ただ論理でありのままの自然を描くのだ。論理と自然とは一見、矛盾しているように思うがその矛盾が肝心なのだ。自然とは純粋で力強いことである。

 

 パリで幼年期を過ごした岡本少年はルーブル美術館で観たセザンヌの絵に感涙した。2回目の涙はピカソの絵を観た時だった。太郎がピカソの作品を年代別に順に解説していく。彼の生い立ちや家族構成にも触れていく。勿論それだけでは無く太郎のピカソの論述は、明晰で的を得ている。これだけピカソの絵を深読み出来るのは太郎ぐらいだろう。

 

 雑誌の取材もあってピカソに会いに彼のアトリエがある南仏まで会いに行く。日本人の画家でピカソに会った事があるのは岡本太郎ぐらいではないか。アトリエでピカソと3時間みっちり話をした。ピカソ自身はユーモアのある方で人を笑わせるのが好きで真剣な芸術論なんて決してしない。呆気にとられた太郎だったが、彼の仕事量には驚かされたと言う。確かにピカソは生涯に沢山の絵を描いている。明らかに質より量の人だった。量をこなせば当然、質のレベルも高くなる。

 

 太郎はゲルニカピカソの最高傑作だと言う。スペイン内戦中のフランコ政権を支持するドイツ空軍による空爆ゲルニカは壊滅した。1937年にピカソが怒りをこめて描いたのがマドリードプラド美術館にあるゲルニカだ。実は僕もスペイン旅行に行った時にゲルニカの実物を鑑賞した。ものすごい大きさの壁画で圧倒された。うろ覚えだがゲルニカの部屋だけは撮影禁止だった。作品は言葉では表現できない。厳粛な雰囲気だった。敵を牡牛で表現したのはピカソがスペインの常夏のマラガで生まれ育ち、幼い時から闘牛を見ていたからだろう。

 

 マドリードバルセロナに住み、芸術の都、パリに親友と住むが、親友が失恋で精神的に不安定になり拠点にしていたパリを離れる。そんな影響があって青の時代の作品は描かれた。苦悩の時期だ。太郎が高く評価しているのがゲルニカが書かれた時代のピカソだ。挑戦的な自信と野心に満ちたピカソ。伝統とか古い習慣に縛られることも無く好き勝手に描いたピカソ

 

 

 

 

 

供述によるとペレイラは

 

 須賀敦子の翻訳が好きで買った。アントニオ・タブッキの作品だ。ポルトガルの温暖な気候とは裏腹に1938年はファシズムの魔の手が及んでいた。リスボンで元新聞記者で今は小新聞社の文芸記事担当のペレイラ。彼は妻に先立たれ、心臓も悪く太っていて何だか冴えない人物だ。食欲旺盛でお酒は飲めずレモネードが大好きで1日に何杯も飲む。かかりつけの医者もいる。友人もいなく何時玄関に飾ってある生前の妻の写真に話しかけれるちょっと夢遊病のような状態だ。実際に彼は沢山の夢をみる。ペレイラが暇潰しに読んでいた雑誌に死についての論文が掲載されていた。彼はその論文に関心を持って読み、書いた本人に会いたいと思い連絡を取る。

 

 書いた人物はモンテイロ・ロッシと名乗るまだ大学を出たばかりの青年で雑誌に載った論文は彼の卒業論文だった。彼との出会いがペレイラの運命が大きく変えようとしていた。幾度か邂逅を重ねた内にモンテイロ・ロッシには反ファシズム派の思想の持ち主でマルタと呼ばれる恋人もいた。政府に楯突く若者の勢いはすごい。戦闘に参加するレジスタンスのような若者二人。

 

 1938年とはいったいどういう時代だろう。その年にはヒトラーオーストリアを併合してヨーロッパに戦火が訪れようとした悪夢の時代だった。前年には日中戦争が始まり、ポルトガルの隣国のスペインでは軍事政権と民主派の間で内戦が始まり、スペインのフランコ軍事政権を支持していたドイツ軍による空爆ゲルニカの都市が壊滅的な被害を受けた。

 

 ペレイラは若者二人を匿って手助けする道を選んでしまう。何故だろう。ファシズム政権に狙われている若者二人を手助けするのはとても危険な行為だ。ファシズムの嵐の中では原論の弾圧があった。小さいながらペレイラが勤めている新聞社でも当然、規制があり愛国的な文章を書くように部長から言われていた。それでもペレイラは自由なリベラルなフランスが好きでモーパッサンバルザックの短編を翻訳して載せていた。フランス贔屓だった。精神科医との相談や妻の死を乗り越えて彼は若者二人の味方をするのだ。結末に触れるが最後は新聞の記事でファシズムの民衆の弾圧を暴きペレイラ自身が追われる側の人物になる。

 よく完成された小説だと思う。第二次世界大戦中はスペイン内戦やドイツ、イタリアのファシズム政権の影響がとても強かったポルトガルを舞台にしたのはタブッキの才能だと思う。1994年に書かれた小説。