トニオ・クレーゲル

  マンの代表作は魔の山である。私の愛読書であるがマンの中編小説もすごい。トニオ・クレーゲルもまさしくマンの代表作の一つだといっても過言ではない。映画でも有名なヴェニスに死すの方が知名度は高いと思うがあの作品は年老いた男の少年愛を書いた作品でちょっと私には理解出来ないところがあった。トニオ・クレーゲルの方が私は遥かに好きになった。

 トニオは詩人であり苦悩と孤独、自分の健康を損なってまで芸術に身を捧げるのである。寧ろ苦悩が彼の芸術精神をより高めるのである。トニオは平凡な幸福、健全な精神が宿っている人たちには優れた芸術作品は書き得ないと言う。それでもそんな彼らを愛してすらいる。多少の軽蔑はあっても。

 物語は彼の少年時代から始まる。クラスの人気者であるハンスに憧れを抱いていたトニオは彼と一緒に散歩に行くのが楽しみである。しかし瞑想家のトニオと乗馬好きで活発なハンスとは真逆の性格である。トニオは青い目のハンスを愛していた。少年期には同性に好意を抱いたりするのはよくある事だと思う。青年期にはインゲボルグに恋してしまった。彼女には好きだと告白できずに自分が舞踏会で失敗して恥をかいて彼女に笑われてひどく落ち込んでしまった。大人になって詩人として成功したトニオはインゲボルグとハンスに再開するがまたしても彼の声は二人には届かなかった。話しかけられるのを待っていてもやはり二人は彼の部屋を訪れることはない。

 この作品はマンの自画像が反映されていて最もマンの人間性に近い。主人公のトニオがクレーゲル領事の息子なのもマン自身の祖父がオランダ領事だったからである。美しい小説だと思う。若者の多感だった頃の過敏な感受性をよく描けていて多くの読者はトニオに共感したのではないだろうか。

翻訳は新潮文庫河出文庫の両方で読んだが、新潮の方は文体が手馴れていて訳者の高橋義孝氏の手腕が発揮されている。河出でも勿論構わない。寧ろ河出には挿絵が収録されているので自分の想像力の手助けになってくれると思う。兎に角いい作品だったので本書に出会えて本当に良かった。

 

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

 

 

 

カフカ 城

 長い読書だった。カフカの一番長い小説である城を読了。数年前に一度挑戦したが、フリーダと学校の教室で寝込む箇所で挫折したのだ。でも今回は何とか読破。測量士であるKはある村に派遣されたがいつまで経っても目的地である城にたどり着けない。松岡正剛氏は城の読後感は何も残らない。しかしそれがカフカなのであると評したが確かに未完の作品なので結局何も分からずじまい、一切の伏線を回収しないまま物語は唐突に終わってしまう。カフカの作品は一般的に不条理小説と云われているが、お役所的な煩わしさに翻弄されて目の前に城があるのにも関わらずいつまで経っても城に入る許可が下りない真に不思議で非合理な世界だ。縉紳館、橋屋、学校をたらい回しにされたKは自分の義務を果たすために城の役人と接触を試みるがことごとく失敗に終わる。まず第一に城のクラム長官に仕事を依頼されたKだが村長の手違いで実際には測量士は城に必要無かったのだ。クラムの愛人であるフリーダとKが恋仲になって彼女は働いていた酒場を首になり追い出されてしまう。学校の教室で暮らす事になったが二人だがKが外出中にKの助手であった男とフリーダは恋愛関係になってしまう。Kもエルザという城で働いているバルナバスという男の姉妹に好意を抱くようになる。フリーダの代わりに酒場で働くようになったペーピーもKと一緒に暮らそうと告白する。村長や宿屋の女将さん、在村秘書との会話で城の旧態依然の官僚システムの全貌を掴んだKだが結局最後まで城に出向く事は無かった。登場人物のそれぞれに思惑や勝手な憶測があるのでそれはそれで大変面白かった。城は長く読み継がれている傑作だが登場人物も多くまた600頁もある長編なので一回読んだだけでは細部までよく分からなかったというのが本音だ。再読しないといけない。

 

城 (新潮文庫)

城 (新潮文庫)

 

 

 

灯台へ 再読

 ウルフの灯台へは前回みすず書房から出ている訳で読んだがちょっと絶版の上に古い訳だったの改めて今度は河出書房の新訳で読んだ。今一般の書店で「灯台へ」が手に入るのは河出書房か岩波文庫かで私は迷わず河出書房の鴻巣氏の訳を選んだ。まずハードカバーなので字が大きく見やすい、また表紙が一面青なのもいい。この小説のイメージにピッタリだ。岩波文庫でも良いと思うが作品への解説、ウルフの年譜が河出書房の方が充実してて作品以外のウルフの生涯も分かるので作品をより深く知るのにも良いと思う。なぜなら灯台へはウルフの自伝的要素が色濃く反映されているのだから。

久しぶりの再読だがやはり名作だと思う。作品全体が詩を読んでいるようで美しい。ウルフの代表作は灯台へかダロウェイ夫人だと思う。私は断然灯台へが好きだ。ダロウェイ夫人は大都会のロンドンで生きる人たちをダロウェイ夫人を中心に内面の描写を書いた物だが、こちらの灯台へスコットランドの海が見える浜沿いの別荘が舞台なので都会には無い、海や浜辺、砂、自然の美しさがある。登場人物も魅力的な人ばかりだ。8人の子供を抱えるラムゼイ夫人は絶世の美女で誰からも愛されて尊敬されている。夫のラムゼイ氏は気難しく自分に自信が持てず精神的に不安定だ。妻や子供たちまでにも同情を買って貰おうと必死だ。氏は哲学者であり夢心地のような気分で思索に耽りブツブツと独り言を言いながら別荘の庭を歩き回っている。夫人は夫を愛してはいるが怒りっぽい夫に怯えているところもある。子供たちも父親が怖い。末っ子のジェイムズは母親が大好きでいつも一緒に行動を共にしてる。別荘にはウィリアムバンクスと言う名のラムゼイ氏の幼馴染や、子供たちから莫迦にされているチャールズダンズリーや多くの人が行き交う。画家のリリー・ブリスコウもその内の一人だ。ラムゼイ氏の別荘で彼女は絵の鍛錬に励む。

 ダロウェイ夫人もそうであったが物語は登場人物の内的描写を軸に進んでいく。灯台へも語り手が次々に移行していくのでたまに誰の内面描写か分からなくなる時があるが、それは大して重要でもないのでゆっくりと読み進める。物語は3章からなっていて1章では別荘での1日を詳細に意識の流れとともに描く。2章ではラムゼイ夫人は既にこの世から去っている。子供も二人死んでいる。別荘が売りに出されるというのでマクナブ婆さんが跡片ずけをしに来る。最終章ではようやく念願だった灯台行きが十数年の時を経て実現するがラムゼイ氏に付き合わされて嫌々ジェイムズと姉のキャムが一緒に行く。

第1章のラムゼイ夫人が主催者となった夕食会の場面は中々面白かった。バルザックトルストイなどの私が知っている名前が出てくると嬉しい気持ちになる。ラムゼイ夫人は言う。どうしてロシア人の名前はあんなに長いのでしょうね。ごもっともだ。私もそう思う。

 後に意識の流れと云われる今までに無かった内面の奥深くを掘り下げた描写の仕方は全く画期的だった。プルーストと並ぶモダニズム文学の代表がウルフである。美術評論家のジョンラスキン、小説家のディッケンズ、ワイルド、画家のミレイを輩出したイギリスの文化が栄えた絶頂期がヴィクトリア王朝時代であった。そこからどうやって全く新しい、既存の芸術から脱却すべきなのかウルフの試行錯誤の結果、灯台への名作を生み出したのだと思う。ウルフの友人で彼女が主催したブルームズベリーの会員であった同じ小説家のフォースターの存在も大きかったのだと思う。私はフォースターのインドへの道と、ウルフの灯台へがイギリス文学で一番好きだ。家の本題に置いて繰り返し読みたい本である。

 

 

 

 

リア王

 シェイクスピアリア王を読了。漸く、シェイクスピアの四大悲劇を全部読めた。素直に嬉しい。やはりハムレットが一番有名な作品かもしれない。オフィーリアが発狂して川で溺死する場面がミレイの絵で再現されその絵はヴィクトリア王朝時代の最高傑作といわれている。私は個人的にはオセローが一番好きだ。嫉妬をテーマにあれだけ優れた戯曲は他に無いと思う。最後の全く予想外の結末も素晴らしかった。しかしリア王もオセローに負けず劣らず好きな作品だ。何ていうか、リア王に限らずシェイクスピアの作品は粗筋がよく出来ていて必ず伏線を回収して辻褄がよく合っている。つまり最初から最後まで完璧な作品が多いと思う。

 老いたブリテンリア王が長女と次女に財産や地位などの自分の持っている物を全部上げたのにも関わらず裏切られ嵐の中、王城から閉め出され路頭に迷う。そんな中、助けてくれたのは実直な性格でリア王と対立し一切の財産も領土も受け取らなかった末娘のコーディリアだった。本作は四大悲劇の中でも一番多くの人が争い死ぬ。最後の次々に登場人物が亡くなっていく様子はやや無理がありリアリティに欠けていると思ったのであまり物語の世界に没頭出来なかった。その点ではオセローの驚愕するが立派な主人公の死に方の方が私は好きだった。一般的にはハムレットリア王が最もシェイクスピアの作品の中で人気があると思う。だから一度は読んでおいた方がいいと思う。

 

シェイクスピア全集 (5) リア王 (ちくま文庫)

シェイクスピア全集 (5) リア王 (ちくま文庫)

 

 

 

ハックルベリーフィンの冒険

  いや。面白かった。毎度毎度月並みの発言で申し訳無いが面白かったの一言に尽きる。本書はマーク・トウェインの最も評価されている作品だ。以前に新潮文庫から出ている方を読んだがちくま文庫の方が遥かにいい。まず挿し絵が美しい。やはり活字だけでは少々退屈だ。だから最近は挿し絵付きの本を読んでいる。加島祥造氏の翻訳がとにかく素晴らしかった。加島氏自身も作家であるのでマーク・トウェインの英文を同じ作家としてどう翻訳すればいいのか本書の解説で彼が試行錯誤した事がよく理解出来た。本書は完全版である。第一六章で大筏に乗ってどんちゃん騒ぎをしている男達の幽霊樽の話も漏れなく収録しているので嬉しい限りだ。最近、出版された柴田元幸氏の方ではこの部分は無かった。

 

 本書はミシシッピ川を舞台に黒人奴隷制度で黒人の自由が無かった南北戦争の前の時代の話だ。黒人奴隷のジムとハックは筏に乗って長く広大なミシシッピ川を自由を求めてどんどん南下して行く。ハックは呑んだくれの暴力親父から逃れるために巧妙な手を使って逃げてきた。一方のジムも使用人の主人のダグラス未亡人から逃げてきた。当時の黒人は一家の所有物とされていて黒人の逃亡はご法度でそれに加担する者も処罰され世間一般の常識で言うと良心に反するものだと考えられていた。ただそれでも自分の信念でハックは迷信深いが親切で優しいジムを救い出す。ハックの思慮深さには驚かされる。彼は何事も大衆の意見にとらわれる事なく自らの考え方で物事の是非を決める。黒人奴隷を助け出す事に良心が咎めたり悩んだりもするが、ジムが好きでもあったので一緒に逃亡劇を繰り広げる。少なくともハックからは一切、黒人のジムへの人種的偏見は感じなかった。ハックはとてもいい奴なのだ。名作なので翻訳は多数あるが、私はちくま文庫の加島氏の翻訳が一番好きだ。

 

完訳 ハックルベリ・フィンの冒険―マーク・トウェイン・コレクション〈1〉 (ちくま文庫)

完訳 ハックルベリ・フィンの冒険―マーク・トウェイン・コレクション〈1〉 (ちくま文庫)

 

 

 

テンペスト

シェイクスピアテンペストを読了。シェイクスピアの劇作は面白い。登場人物が立派に描かれていて読んでいて感心する事が多い。ミラノ大公のプロスペローは大変慈悲深いお方だ。実の弟とナポリ王の悪巧みにより孤島に流されたプロスペローは魔法や妖精のエアリエルを使い大嵐を起こし彼らを同じ孤島に遭難させる。ナポリ王達が飢えや仲間はぐれになり苦しんでいる事に同情して最後には彼らを許す。

「復讐ではなく、徳をほどこすことこそ、尊い行為」私の格言にしたい台詞だ。

 

テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)

テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白鯨

 海底二万マイルのネモ船長は温厚で冷静な人だった。しかし白鯨のエイハブ船長は激情に駆られて自らを破滅に追い込む狂人だ。私は海洋小説が好きだ。浪漫がある上に非日常的な船乗りの世界を味わえる。白鯨はアメリカ文学の古典として有名だ。上下で1000ページほどあるので、読み通すにはそれなりの体力が必要なので今までずっと読むのを躊躇していた。だが海底二万マイルを読破した勢いで白鯨も読んでみた。

 まず、本作の大筋はエイハブという名の熟練の鯨捕りご老人ががモービィ・ディックという名の頭部に白い大きな瘤がある怪物と恐れられている白鯨との戦いだ。エイハブ船長は片脚をモービィ・ディックに食いちきられたた怨念、復讐を果たそうと躍起になっている。モービィ・ディックへの敵討ちがエイハブの人生最大の目的だ。モービィ・ディックへの復讐心でのみ生きていると言っても過言ではない。しかしそれにしても一向に物語中にその怪物は出てこない。最後の3章でようやく現れるのだ。後は延々と鯨の博物学的な知識を聞かされる。著者の鯨学が物語のほとんどを占めているので読んでるのが苦痛になったり退屈だと思うかもしれない。それでも本書は読むに値するのだ。本書は膨大な旧約聖書ヨブ記や沢山の書物からの引用があるので本書を読むだけで鯨のみならず多くの知識が得られると思う。ただそれが本書が難解だと言われる所以かもしれないが。勿論、鯨の情報も満載で鯨の種類、古代から鯨が神聖視されて来たことや鯨から多くの脂が取れる事や白鯨の白さについてや、鯨の全長、骨、鯨の絵画について、鯨漁船の生活、鯨捕りに使う武器、捕殺した鯨をどう解体するか、鯨の味、捕殺した鯨を船の脇に吊るして航海する仕方や鯨についてのありとあらゆる事が理解出来た。

 物語の最後はとても悲劇的だ。ネタバレになるので詳細は伏せておくが、エイハブの無謀な航海、自滅行為に乗船員の全員がまきこまれる。語り手の一人を除いて。本書を読んでいてこの激情家の作家メルヴィルドストエフスキーにも通じる物があると思った。出版当初は全く売れずメルヴィルの死後、時を経て白鯨の評価が高まったようだ。古典として長く読み継がれる本にはやはりハズレはないと思う。私はエイハブ船長との鯨捕り、航海たまに出てくる他船との交流を大いに楽しめたと思う。楽しい読書体験だった。

 

白鯨(上) (新潮文庫)

白鯨(上) (新潮文庫)

 

 

白鯨 (下) (新潮文庫 (メ-2-2))

白鯨 (下) (新潮文庫 (メ-2-2))